藍マイヒストリー②
メーカー不明のGジャンのパッチ部分です。古着屋ではグレイスフルデッドと書いてありました。切り取ってワッペンに。
1970年を境に米国のヒッピー文化は衰退しました。文明を否定してすっぴんにパンタロンジーンズひとつで、あるいは裸で、男女グループが都会を離れた僻地にてドラッグを浴びて農作業をしながら共同体を形成する、、、
コミューンと呼ばれたそれらはみな、行き詰まりヒッピーは都会に逃げ帰りました。
教訓、遠いと敵からはどうぞ勝手にやれば、というカンジになる、、、、。
しかも彼らは文明否定しちゃってるからテレビすら観れないんです。
農作業だってそもそも動機が不純だから不勉強で作物が育たない。
最後の生き残りのヒッピーが「今は電子レンジが欲しい」と願う映画がありました。
フラッシュバックというデニスホッパーの2000年頃の映画です。
デニスホッパーが[アメリカの友人]で着たのもたしかこの
557です。色落ちがいいのが案外少ないです。コレは38か40でタイトですが最高の色です。5千円台でしたが、、美しいです。
日本でも原発否定するあまり、僻地でほぼ電気なしの生活をしてる人もいます。
言行一致という意味では立派です。
しかし人間らしく生きようと、オーガニック野菜にこだわる自然主義者が、がんが発覚するや否やなりふり構わず最先端科学医療にどっぷり頼る、、、、、、
ご都合主義だが、自分はこれもまた人間らしい、と思ってしまいます。
にんげんだもの。。。。。
傷天の小暮修(ショーケン)に憧れたのは彼が新宿を離れなかったからです。
自分も体制内アウトローに憧れ、漫画家を志し某デザイナー学院(夜学)に入学したのです。
でも漫画関連が苦手なアニメーション科しかなくて、、、、
ジーンズはスリムからストレート、ややフレアーに移行しています。
あれほどトラッドの普遍性をうたっていた雑誌が今度はニュートラッド(何じゃそりゃ?今見ると伸びるフレアーパンツの上下ゴルフ着)とかサーファーを打ち出してきたんです。
シレっと、、、、
実際はガ二股で足長くないです
この頃からファッションは己れの思想を表現する武器でなく、ただのおしゃれなのかも、と思えて来ました。自分が稚拙だったというより70sあたりには本当に服も若者の反抗手段でした。
クリスマスの度に儲ける山下達郎さんは今もって長髪です。
「僕らが髪を伸ばした理由はファッションなんかではないはずだ」と、断固として50年近く長髪なんです!竹内まりあも呆れているでしょう。
誰にでもできる事だが、実は最も難しい戦いです。
この50年クリスマスに東京に雪が降った事などないですが、全然許せますよ。
19歳の時、ジョージルーカスのアメリカングラフィティが封切られ、ロカビリーを軸とした空前のオールディーズ60sブームがやって来ます。
映画も感動したし、自分にはやはりコレか、と思い、てかてかのリーゼントにもしましたが、不良ではなかったんです。こんな顔だから紛らわしいですね。
吉祥寺で働いてました。サンロード内現マックの4階レストラン。屋上より
ぢーんずは?
50,60sの文化以外認めないライフスタイル、、、しかも勝戦国アメリカの作った物をアジア人ごときがありがたがる、という。池谷先生にまた怒られそうな嗜好です。
愛車スカイラインのベンチシート!当時でも旧車。洗えや
前にテレビで米国人が忍術研究で来日しました。
尊敬する人物は服部半蔵だそうです。日本人が皆忍者に造詣が浅いことを嘆いていました。
自分らも同様滑稽に映ったでしょうね。アメリカの人には。
矢沢永吉は断固反対したのに、ジョ二ー大倉に戦略的に勧められたというポマードべったりのリーゼント姿は、彼のみならず、不良やオールディーズや暴走族すべてひっくるめたバッドボーイズの象徴になっていきました。
デザイナーズ学院は長続きしなかった(中退)ですが、仲間が皆立川駅周辺の喫茶店に働いていたり、吉祥寺のディスコに繰り出したり、目標も定まらず無意味に集まっては漂っていた20歳前後は、切なくも楽しかったですね。
ジーンズはやっと、リーバイスやリーが主流になった気がします。
たぶんポパイやホットドックプレスの影響で本場もの以外認めない風潮になったのでしょうね。
未だブルージーンズは冬の時代(私的に)でしたね。